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日本の地ビール

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日本の主な地ビール

大雪地ビール(北海道旭川市) ジャパン・ビア・グランプリを始め、数々の賞を受賞している本格派。 

富良野地麦酒(北海道富良野市) 富良野スキー場の近くに立地。

オホーツクビール(北海道北見市)日本で2番目に地ビールを製造。

小樽ビール(北海道小樽市)

カムイビール(北海道岩見沢市)

大沼ビール(北海道七飯町)

銀河高原ビール(岩手県西和賀町)

エチゴビール(新潟県新潟市)日本初の地ビール。

那須高原ビール(栃木県那須町)

サンクトガーレン(神奈川県厚木市)

さがみビール(神奈川県厚木市)

湘南ビール(神奈川県茅ヶ崎市)(熊澤酒蔵)

志賀高原ビール(長野県山ノ内町)日本酒やワインも製造している酒蔵が製造。

ヤッホー・ブルーイング(長野県軽井沢町)世界4大ビール品評会で7年連続受賞した実力派。代表製品は よなよなエール

御殿場高原ビール(静岡県御殿場市) キリングループである米久の子会社。

ひでじビール(宮崎県延岡市)

田沢湖ビール(秋田県仙北市)秋田県第一号の地ビール。

門司港地ビール工房(福岡県北九州市)

雲仙旅の麦酒館(長崎県雲仙市)

ニヘデビール(沖縄県南城市)大賞を受賞したこともある実力派。


地ビール(じびーる)とは、緊急経済対策の一環として、1994年4月の酒税法改正により、ビールの最低製造数量基準が2000klから60klに緩和されたことを受けて全国各地に誕生した地域密着・小規模醸造のビール会社による、地方ローカルブランドのビールのことである。

多くの醸造所が、エール、ダークエール、ビルスナー、ヴァイツェン、ケルシュなど数種類のタイプのビールを醸造している。こうした地ビールの醸造所は、全国で100カ所前後ある。

緩和後、一時は地ビールブームとなったが、次第に沈静化。価格の安い発泡酒の攻勢を受けたことで、高価格の地ビールは一気に窮地に立たされることとなり、廃業する業者も出るようになった。我が国では大手メーカーによるピルスナーの生産が主流であるため、他のタイプの生産を行っても普及せず、一部マニアにしか浸透しなかった。

ただし、地ビールは全国区の大手ビール会社の製品に比べると、販売価格が高い上に賞味期限も短く、当然製造量も少ないため、経営に関してはかなり厳しいところが多い。このため、居酒屋チェーン等の飲食店向けに特化した生産を行ったり、他の地ビール業者のOEMを行うなどして何とか生産を維持しているところも多い。

もともとはアメリカ合衆国にて1980年代後半より、地方の小規模な醸造所や、レストランに併設された醸造施設によって生産されるビールが人気を得ていたことから端を発する。この動きが、世界的な地ビール流行の流れとなった。それらの醸造所は、クラフト・ビール、マイクロ・ブリュワリーなどと呼ばれている。アメリカの代表的なクラフト・ビールとして、「サミュエル・アダムズ」等が挙げられる。

審査会
毎年、日本地ビール協会主催でジャパン・ビア・カップが開催されている。この審査会で全ての地ビールの出来の優劣が決まるわけではないが、一定以上のスキルを持つ審査員によって審査されているため、ある程度の信頼はおける。 なお、ジャパン・ビア・カップの入賞ビールは春に東京と大阪で行われるジャパン・ビア・フェスティバル会場で試飲が可能である。

サントリービール

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サントリー株式会社(SUNTORY LIMITED)は、大阪市北区堂島浜二丁目1番40号に本社を置く、洋酒、ビール、清涼飲料水の総合企業。1899年に鳥井信治郎が鳥井商店を創業。1921年に壽屋(寿屋)を設立、1963年に現社名とする。この社名が初めて現れたのは商品名から。1929年4月、初めて発売したウイスキーに創業者鳥井信治郎が「サントリー」と名付けた。これは当時発売していた赤玉ポートワインの「赤玉」を太陽に見立ててサン(SUN)とし、これに鳥井の姓をつけて「SUN」「鳥井」、「サントリー」とした、ということになっている。「鳥井さん」を逆さにしてサントリーとしたという説も広まっているが、これは誤りである。

事業の主要な部分はアルコール飲料だが、清涼飲料にても有名。

非上場大企業の代表として、従来から竹中工務店・出光興産(2006年10月24日に株式公開)などと並び挙げられてきた。その理由として、「株主に商品の味を左右されたくないから」と言われている。社長は鳥井姓と佐治姓を名乗っているが、これは創業者鳥井信治郎の実子、佐治敬三が縁戚の佐治家を承継した後に同社社長に就任したことに起こる。

現在のコーポレート・スローガンは「水と生きる SunTORY」。過去には、「人と自然と響き会う SUNTORY」ということで「響」の文字をモデルにしたロゴマークと提供クレジットも存在した。なお、響のマークは現在もサントリーウイスキーのふたにあしらわれている。さらに以前の提供番組でのクレジットの読みは「世界の名酒 サントリー」であった。

主たる事業

ウイスキー部門
京都府と大阪府の県境の大阪府三島郡島本町の山崎と南アルプス・山梨県北杜市の白州に蒸留所を持ち、日本初の本格的なウイスキー「ホワイト」(発売当初の名は「白札」、1929年出荷開始)や、「角瓶」(発売当初の名は「十二年もの」、1937年出荷開始)を始め、「トリスウイスキー」(1919年出荷開始、1960年代「トリスを飲んでハワイへ行こう!!」が流行語に)、「サントリーローヤルウイスキー」、「山崎」、「響」などを製造販売している。ウイスキー製造業者としては日本最大手である(2005年現在)。

2006年(平成18年)10月からはロシアの輸入販売代理店「VELD21社」を通して、ロシア市場で本格的にウイスキーの販売を開始する予定である。日本のウイスキーメーカーとしては初めてロシア市場に本格的に参入するものである。

マスターブレンダー
鳥井信治郎 (初代、1929年-1961年)
佐治敬三 (第2代、1961年-2002年。初代・信治郎の二男)
鳥井信吾 (第3代、2002年-。初代・信治郎の孫)

ビール・発泡酒事業
1928年に横浜市鶴見区の日英醸造(商標名「カスケードビール」)を買収して「新カスケードビール」を製造販売した。1930年、政治家田中義一の愛称にちなんで「オラガビール」と改称し、低価格競争を仕掛けたが、大手各社の反撃に遭い、1934年ビール事業からの撤退を余儀なくされる。
1963年に「純生」で大手三社で寡占状態であったビール業界に再進出した。この時「純生」の商標登録を巡って他のビール会社との間で純生論争が展開された。1980年代末からのドライ戦争の只中に、麦芽100%ビール「モルツ」を発売し、以降同社の主力ビールとなる。CMでも、1980年代にペンギンのアニメCM、1990年にプロ野球OBで作られた球団「MALT'S」のCMで多く話題を提供する。永らくビール部門では黒字が出ていないと言われていたが、2004年に黒字化したと発表した。さらに翌2005年、「ザ・プレミアム・モルツ」がビールとして日本初のモンドセレクション最高金賞を受賞し、サッポロの「エビスビール」を中心とするプレミアムビール市場に一石を投じた。2006年にも、モンドセレクション最高金賞を連続受賞。
1994年には格安の輸入ビールに対抗して、日本で初めて発泡酒「ホップス」を発売する。当初は「節税ビール」と呼ばれた時があったが、現在では完全に市民権を得ている。
2005年から、全てのビールを天然水仕込に変更した。
工場は東京都府中市、群馬県邑楽郡千代田町、京都府長岡京市、熊本県上益城郡嘉島町の4箇所。
後年(1988年付近)、佐治敬三はビール業界に再進出した当時の経緯について、「洋酒が絶好調で作れば何ぼでも売れる状態。そんなことでは(=努力しなくても売れることに慣れれば)会社がやがて傾く。だからビールに再進出した。」と語っている。(NHKのインタビューによる)

サッポロビール

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サッポロビール株式会社(Sapporo Breweries Ltd.)は日本を代表するビールメーカーの一つ。1876年に政府の開拓使が札幌市に開拓使麦酒醸造所を設立し、そこで作られた「冷製札幌ビール」が社名の由来とされている。

概要
1886年大倉喜八郎率いる大倉組商会が開拓使麦酒醸造所の払い下げを受けるが、1887年大倉と渋沢栄一、浅野総一郎らが札幌麦酒株式会社を設立し、同社が製造販売を行う。

1906年に日本麦酒醸造(ヱビスビールを製造販売。三井物産系)・大阪麦酒(アサヒビールを製造販売。)と合併し、大日本麦酒株式会社となる。この時、静岡県東部・長野県・新潟県以東での同社のブランドとしてサッポロビールは存続。

1933年日本麦酒鑛泉(ユニオンビール・三ツ矢サイダーを製造販売。根津嘉一郎経営。)を、1943年櫻麦酒(サクラビールを製造販売。1939年帝国麦酒から社名変更。旧鈴木商店系。)を合併し、大日本麦酒製品のシェアは全体の7割以上を占める事になった。

しかし、1943年に麦酒の商標が禁止されサッポロビールのブランドは消滅。1949年に、過度経済力集中排除法に基づき、朝日麦酒(現・アサヒビール)と、後にサッポロビールとなる日本麦酒に分割された際も、日本麦酒はニッポンビールのブランドを採用する事になり、サッポロブランドは引き続き封印されたまま。

やがて、ニッポンビールの苦戦と共に愛飲家の中からサッポロビール商標復活の声が起こるようになり、1956年にまず北海道で復活。1957年より日本全国でサッポロビールが発売されるようになり、1964年に会社の商号も「サッポロビール株式会社」となる(なお、商標復活は当時の社長、松山茂助の肝煎りで、ビール業界で数少ない醸造技術者出身の社長だった)。

現在のサッポロビールは、2003年7月1日に当時のサッポロビール株式会社(同日付でサッポロホールディングス株式会社と商号変更)の会社分割により設立されたものである。

1970年代の生ビール競争で躍進し、一時期は栄華を誇った同社であるが、現在は日本におけるビール類のシェアは第3位である。自ら開拓した第3のビール分野ではシェア第2位で、ほぼキリンビールとの2強対決に絞られつつある。サッポログループ全体では恵比寿ガーデンプレイスなどの不動産事業による利益が酒類販売による利益に匹敵するほどの位置を占めるため「サッポロビル株式会社」と揶揄された事も。

その経緯から北海道では最もポピュラーなビールとなっている。北海道内での鉄道の駅では同社の看板がよく見られる、北海道でただビールを注文するとサッポロビールが出ることが多いことが長かった、などである。しかし、北海道でも他社のビールの追い上げが激しい。また中央研究所を道外に置くなど、必ずしも同社は北海道を重視していない。

なお、サッポロビールのラベルに描かれている星は北極星を表し、前身の開拓使麦酒醸造所を保有していた北海道開拓使の徽章であり、サッポロビールとなったあとも使用が続けられ、同社の伝統となっている。

ちなみにキャンペーンガールは2000年以降、眞野裕子、紗川理帆、鈴木ゆかり、村上恵梨、大友みなみと、5年連続で愛知県出身者が選出されている。

また、現在海外からのビール・酒類を販売する「日本ビール」という会社が実在するが、これは現在の当社とは一切関係がない。

キリンビール

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麒麟麦酒株式会社(キリンビール、英記表記 KIRIN BREWERY
COMPANY,LIMITED)は、日本の大手酒造メーカー。主にビールや発泡酒を製造している。社名をキリンビール株式会社と表記する場合も多い。三菱グループの一員。サッカー日本代表及びバスケットボール日本代表の公式スポンサーであり、日本オリンピック委員会のオフィシャルパートナーである。1870年(明治3年)に日本で初めて大衆向けにビールを醸造・販売した企業「スプリング・バレー・ブルワリー(コープランドビール)」を起源としており、日本のビール事業の草分け的存在である。


沿革
1869年 - ローゼンフェルトとウィーガントが横浜山手46番に「横浜ブルワリー(ジャパン・ブルワリー(初代))」を創設。居留地の外国人向きにビールの醸造を開始。(※後にいくつかの統廃合を経て横浜ブルワリーは閉鎖。1971〜72年ごろウィーガントはヘクト・ブルワリーに移籍。ヘクト・ブルワリーはいったん閉鎖後、1974~75年ごろババリア・ブルワリーとして再興。)

1870年 - ウィリアム・コープランドが横浜山手123番(天沼)に「スプリング・バレー・ブルワリー(コープランドビール)」開設。大衆向けビールとしては日本で初めて継続的に醸造・販売を開始。

1875年 - コープランドが、工場隣接の自宅を改装して日本初のビアガーデン「スプリング・バレー・ビヤ・ガーデン」を開設。

1876年 - コープランドとウィーガントで、商事組合を結成、醸造所を「スプリング・バレー・ブルワリー」に集約する。(事実上 ウィーガントの「ババリア・ブルワリー」を合併。)

1884年 - コープランドとウィーガントの経営方針の対立により、スプリング・バレー・ブルワリーの経営が行き詰まり、醸造所がいったん閉鎖される。

1885年 - T・グラバーや三菱財閥の岩崎弥之助らが発起人となり、外国資本で香港国籍の新会社「ジャパン・ブルワリー(二代目)」を設立し、スプリング・バレー・ブルワリーを買収し再建。(後に株主として渋沢栄一も参加し、後に重役に就任。コープランドは「スプリング・バレー・ビヤ・ガーデン」の経営を継続。)

1888年 - ジャパン・ブルワリーが明治屋と一手販売契約を締結、「麒麟ビール」発売。(明治屋は現在も出資している。)

1907年 - 三菱と明治屋の出資による純粋日本国籍の新会社「麒麟麦酒株式会社」を設立。ジャパン・ブルワリー社から組織や事業をそのままの状態で買収・継承(会社としてのジャパン・ブルワリー社は解散)。

1923年 - 東洋醸造を合併し、仙台工場とする。

1928年 - 「キリンレモン」「キリンシトロン」「キリンサイダー」発売。

1960年 - 「キリン缶ビール」発売。

1972年 - 「キリン・シーグラム株式会社(現・キリンディスティラリー)」設立。

1976年 - 小岩井農牧社(三菱グループ)との共同出資で「小岩井乳業株式会社」設立。

1985年 - 「キリン生ビール(瓶ビール)」発売

1986年 - 麦芽100パーセントの生ビール「ハートランドビール」発売。

1988年 - ドライビールブームの全盛期、「キリンドライ」が発売される。また、麦芽100パーセントの生ビール「キリンファインモルト」も発売。

1989年 - 「キリンビール」が「キリンラガー」に名称変更、「キリン生ビール」が大幅に改良されて「キリンファインドラフト」に改名。また味わいにこだわった生ビール「キリンファインピルスナー」も発売される。

1990年 - 一番搾り麦汁を使用した「キリン一番搾り生ビール」発売。また「キリンファインドラフト」が「キリンドラフト」に改名。

1991年 - 松任谷由実DAWN PURPLE TOUR1991-1992に協賛。以降、10年間に渡り、松任谷由実のコンサートツアーに協賛。

1991年 - 清涼飲料水部門が「キリンビバレッジ株式会社」として分社独立。

1991年 - 「キリンプレミアムビール」発売。一番搾り麦汁を使用した熱処理ビール。

1991年 - 秋季限定発売の熱処理ビール「キリン秋味」発売開始。

1993年 - アンハイザー・ブッシュ社からライセンスを受け、バドワイザーの生産・販売開始。(これ以前はサントリーがライセンス契約をしていた。なお、北米では逆方向のライセンスで、アンハイザー・ブッシュ社が、キリン一番搾りなどのビールを製造・販売している)

1996年 - キリンラガーが熱処理方式から熱処理しない「生ビール」に品質改良。しかし、これによりこれまでのラガーユーザーは次々と離れてしまった。また、「キリン一番搾り生ビール」のヒット後もずっと並行販売をしていた「キリンドラフト(旧キリン生ビール)」がついに販売終了となった。

1998年 - キリン初の発泡酒「麒麟淡麗〈生〉」発売。この年の大ヒット商品となる。

2001年 - 「キリンクラシックラガー」発売。ラガービール本来の熱処理方式であるオリジナルのキリンラガーが5年ぶりに復活。当初は瓶ビールのみ。

2001年 - 缶チューハイ「氷結果汁」(のちに「氷結」に改名)発売。

2002年 - 発泡酒「キリン 極生」発売。翌年には黒い色をした発泡酒「キリン 生黒」を発売。

2005年 - ビール風味のアルコール飲料「キリン のどごし〈生〉」発売。

2006年5月12日 - 持株会社化の一環として、「キリンビバレッジ株式会社」のTOBを6月15日まで実施し、キリンビバレッジの発行済株式総数
(55,002,370株)の97.07%(53,392,016株)を取得。

2006年7月12日 - 出荷統計量の発表でキリンがビール関連飲料で一位になった。二位のアサヒビールとの差は0.3ポイント。「のどごし」が好調だったのが良かったと報じている。アサヒビールの「ぐびなま。」も好調だったがあと一歩で一位を逃してしまった。

2006年10月1日 - ヤクルト本社と共同で、「キリン ヤクルト ネクストステージ」を設立。両社の健康・機能性食品事業を統合し、両社のチャネルで販売を開始。(※2007年1月1日「キリン ウェルフーズ」の大部分を新会社へ移管し、事業統合完了予定)

2006年10月1日 - 略式株式交換により、「キリンビバレッジ株式会社」の全株式を取得し完全子会社化する。

2006年11月16日 - メルシャン株式会社と資本業務提携を発表。その上でメルシャンの発行済み株式の50.12%を友好的TOBによって取得すると発表。TOB成立後は子会社し、ワイン事業をメルシャンに、焼酎とリキュール類をキリンに集約する予定。

2007年7月(予定) - 7月に純粋持株会社制に移行、現キリンビールを「キリンホールディングス(仮称)」に社名変更し、国内酒類事業を統括する「キリンビール(仮称)」や医薬事業など各種事業会社を分割新設する。

コーポレート・スローガン、キャッチフレーズ
「品質本位のキリンビール」(1950年頃〜1984年)
「どういうわけかキリンです」(1971年頃)
「21世紀へ乾杯 KIRIN」(1984年〜1989年)
「BEER'S NEW 〜どこまでおいしくなれるだろう〜」(1989年)
「新鮮な明日へ KIRIN」(1993年〜2002年) - サウンドロゴでは、1997年5月〜8月までの「キリンラガービール」、同年12月の「キリン一番搾り」は、長野オリンピックのロゴマークとの併用バージョン。
「うまい!キリン」(1999年〜2002年) - 2000年以降は、サウンドロゴを表示しなくなった。
「うれしいを、つぎつぎと。KIRIN」(2003年〜) - サウンドロゴは、どの商品にも公表している。

※なお、コーポレート・スローガンやキャッチフレーズではないが、2006年10月から、すべての酒類系飲料のCMにおいて、『飲酒運転は法律で禁止されています。』という字幕が出るようになった。

ラベルデザイン
現在のラガービールやクラシックラガーのラベルデザインの原型は1889年に誕生。グラバーの提案でデザインされたと言われている。戦中を除いて現在まで受継がれている。
ビールや一部の清涼飲料のラベルに用いられている麒麟の絵の中にはカタカナの「キ」、「リ」、「ン」の文字がデザインされている。
キ:耳と角の間
リ:たてがみの中央に横向き
ン:尾の上部

麒麟のひげは、創業に関わったグラバーのひげがモチーフだと言われている。

アサヒビール

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アサヒビール株式会社(Asahi Breweries,Ltd.)は、日本の大手ビール製造会社。

概説
1889年創業。1949年の大日本麦酒株式会社の分割により設立。

同社の分割は主要ブランドであるアサヒビール(西日本で販売)とサッポロビール(東日本で販売)を分割する形を取ったが、この分割を推進した大日本麦酒の山本為三郎専務が朝日麦酒の初代社長に就任したため、様々な憶測を呼んだ。山本は大日本麦酒に合併された日本麦酒鉱泉の出身であり、その同社から継承した商品でかつ全国ブランドとして知名度のあったユニオンビールと三ツ矢サイダーの2銘柄を朝日麦酒が継承した他、戦前大日本麦酒は設備投資を西日本に集中して行っていたため、その結果最新鋭設備の殆どが朝日麦酒の帰属となっていたのがその主な理由であった。

更に西日本では戦前からアサヒブランドが定着していたため、新生アサヒビールも西日本を中心に売れ行きは好調で、分割当初はキリンビールを含めた3社間で市場占有率1位を誇り、山本社長も関西財界の重鎮として活躍していた。しかし、高度経済成長と共に東京への一極集中化が進むと、結局この山本が主導した地域偏重の分割がたたり、大幅に市場占有率は低下。首都東京では同根で同じくブランド名に馴染みの無いニッポンビール=※と競合。地元とも言える関西地区でも後発のサントリービールの発売に際し山本社長が支援に回ったため結局同一問屋内での競合関係となり、1970年代以降はキリンビールに市場占有率の先行を許し、生ビール競争に敗れてサッポロビール(1964年ニッポンビールを改称)にも追い抜かれてしまった。

1980年代中盤には市場占有率10%を割る程のジリ貧状態となり、とうとう4位のサントリーに追い抜かれる寸前まで来てしまう。そのため、経営状況も悪化。住友銀行(現・三井住友銀行)が支援に乗り出す事となり、同行から経営改善策として1986年に樋口廣太郎が送り込まれる。この樋口の決断で、1987年「アサヒスーパードライ」を投入。このスーパードライの大ヒットとそれに特化した販売戦略が功を奏し、急激に売上高と市場占有率を回復。各社が挑んだドライ戦争にも完全勝利を収め、遂に1998年、国内ビール市場占有率1位に躍り出る。

スーパードライの好調もあり、他社が価格の安さと品質改良で発泡酒の売り上げを伸ばす中、アサヒは「アサヒはドライ一本、ビールのみで勝負します。発泡酒は発売しません」と高々と宣言したこともある。だが、世の中デフレの流れで発泡酒のシェアが伸びる中、看板商品のスーパードライも売り上げに翳りが見え始め、止む無くアサヒも2001年から「本生」で発泡酒戦争に参入することになる。

その後は発泡酒の増税もあり、2005年から所謂第三のビール市場にも参入。ただ、シェア競争の結果、2006年1-3月期にて6年ぶりにキリンビールに市場占有率首位を譲る形となった。

なお、大手靴メーカーのアサヒコーポレーションや健康食品の製造・販売業のアサヒ緑健(いずれも本社福岡県)、並びに朝日新聞社・テレビ朝日・朝日放送などとは無関係である。

※現在海外からのビール・酒類を販売する「日本ビール」という会社が実在するが、これは現在の当社とは一切関係がない。

沿革
1889年 鳥井駒吉が大阪府堺市で「大阪麦酒会社」設立。
1891年 現在の大阪府吹田市に「吹田村醸造所」竣工。
1892年 「アサヒビール」発売。
1900年 日本初のビン入り生ビール「アサヒ生ビール」発売。
1906年 大阪麦酒、札幌麦酒、日本麦酒の3社合同で「大日本麦酒株式会社」を設立。
1949年 過度経済力集中排除法により大日本麦酒を分割、「朝日麦酒株式会社」を設立。
1987年 日本初の辛口生ビール「アサヒスーパードライ」発売。
1989年 「アサヒビール株式会社」に商号を変更。創業時から販売されてきた熱処理されたラガータイプのビール「アサヒビール(オリジナル)」販売終了。
1989年 東京都墨田区吾妻橋の旧吾妻橋工場跡地に「アサヒビールタワー」完成。
1996年 清涼飲料水部門が「アサヒ飲料」として分社独立化。
2001年 発泡酒「アサヒ本生」発売、発泡酒事業に参入。
2001年 ニッカウヰスキーを完全子会社化。
2001年 缶チューハイ「ゴリッチュ」発売、チューハイ事業に本格的に参入。
2002年 沖縄のトップブランド、オリオンビールと包括的業務提携を結ぶ。
2002年 協和発酵工業(焼酎・大五郎など)の酒類事業と、旭化成酒類事業部の焼酎部門(缶チューハイ・ハイリキなど)を譲受。協和発酵工業と合弁で新会社「アサヒ協和酒類製造株式会社」を設立。
2004年 ペットボトル入りのビールを発売予定していたが、延期を発表。
2004年 韓国のヘテ食品を買収することで合意したと発表。
2004年 アサヒ協和酒類製造を完全子会社化。
2005年 ビール風味の新アルコール飲料 (いわゆる第三のビール) 「アサヒ新生(しんなま)」発売。
2005年 チルド飲料メーカー・エルビーをカネボウフーズから買収。
2006年 ベビーフードメーカー・和光堂を第一三共から買収。

スーパードライ
1987年発売。「辛口(KARAKUCHI)」を前面に出し、日本のビールの味を変えた製品とも言われる。使用酵母・発酵技術を改良して発酵度合いを高め、糖度を低くし、アルコール度数を従来よりやや高くしたことで、いわゆる「ドライ・辛口」な味に仕上げた(現在ではビールのアルコール度数が5.5%というのも珍しくないが、当時は4.5%前後が主流であった)。爆発的ヒットを受けて競合他社も一斉に類似品を発売したが(ドライ戦争)、結局アサヒの牙城を崩すことは無かった。乾杯の際にしか飲まれない(2杯目以降はない)ということから「乾杯ビール」と揶揄されることも。国際的にも名が知れ、「スーパードライを飲む」のを日本に来た際の目的、楽しみの一つにしているという外国人もいるほど。

黒生(黒ビール)
いままでの黒ビールは「苦味が重い」イメージがあったが、独自の製法ですっきり飲みやすくキレのあるタイプの黒ビールにリニューアル、「アフター9のビールです」の宣伝文句でヒット商品に。
スタウト(スタウトビール)
戦前から発売されている商品で、隠れた定番。現在唯一の熱処理ビール。
こだわりの極(プレミアムビール、当初セブン-イレブン酒類扱い店舗限定発売、のちNB化)

プライムタイム
2006年6月28日発売。ビールとしては久々の新商品。ドイツ産のファインアロマホップを使用した、麦芽100%のプレミアムビール。
熟撰(プレミアム生ビール)
こだわりの素材を丁寧に仕込み、長期熟成させた。深い味わいと上質な香りが堪能できる。キャッチコピーは『お店でしか、出会えないビールです』。

富士山
富士山の天然水だけで醸造されたプレミアムビール。

北の職人
2006年7月4日、北海道限定にて発売。ビール中に含まれる渋味成分を低減する「クリア濾過製法」により、北海道の食に合うすっきりとした味わいを実現。

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